大阪の大阪らしさとは

おはようございます。140Bの大迫でございます。
今日から『世界レベルの大阪ええもん』の色校正が始まります。
朝イチで到着するはずなんですが、
まだ来ていないので、中島淳社長と二人、
無言の「まだかいな」オーラを発しながら、
首をにょろろっと長くして待っている次第です。
(あ、さっき着きました)


今、140Bのホワイトボードには、
『京都を買って帰りましょう』と並ぶように、
2つの本の表紙が置かれております。
なるほどこうやって横に並んでみると、
品がありながらも遊び心が滲んでいて、
どことなく「親戚」な感じが漂っています。


とはいえ、二人の性格はぜんぜん違います。
なので、京都は大阪のことを見やっては、
「おばさんてば、ほんと愛想が良すぎるんだから」と呟いており、
大阪のおばさんは京都をチラリと見ながら、
「しかし、あの子はおしとやか過ぎるゆうか」と、
笑いながら言ってたりするわけです。
まあ要するに、似て非なるものだけどどこか繋がっている、ということです。


具体的には、誌面構成に表れています。
京都の場合は「料理上手はカタチから」「一筆啓上申し上げます」とか、
モノが使われるシチュエーションごとにブロックを構成していました。
大阪も、一番最初の企画書ではそうしようかと思っていたのです。


ところが、どうもそれではうまくいかない。というかオモロない。
たとえば大阪にも「手作りで何十年…」という職人さんはいっぱいいます。
けれど、じゃあその店に行って、傘だったりカバンを買ったら、
(京都に合わせて言うなら)それで大阪を買って帰ることにはならない。
それは多分に感覚的なものを含むのですが、
モノや店それ自体の中には、「大阪」なるものはないのではないか?
そういうところから、この本は出発しました。


たぶん京都と大阪の街の違いにも由来しているのでしょう。
京都には、連綿と受け継がれる職人の歴史や、
それに裏打ちされて育まれるモノに対するやさしさみたいなものが、
現在進行形として街で生活する人たちの中にあります。
だから、モノの一つ一つに京都らしさが宿るんだろうし、
そこには「京都らしさを発見したい」というこちら側の欲望も働いているのでしょう。


また、地理的・景観的な街の構造も関係しているのではないか。
京都だったら、「京都」を示すアイコンが(町家とかろーじとかね)、
街の中心部に分かりやすい形で集まっていて、そこを回遊できるわけです。
2つの地図を見比べてもらえば分かりますが(さりげなく販促)、
大阪の場合は明らかに、広い。
そして、どこをもって大阪とするのか? という中心が見えづらい。
オフィスビルが密集する本町界隈も、生野区のコリアンタウンも、
城東区のシュークリームが名物の店も、「大阪」と呼べるわけです。


長くなりましたが、大阪名物と呼ばれるモノを買ったり、
店に行ったりしても、なんだか「大阪」を味わった気にならないのは、
そんなようなことだと思います。
ヨシモトとかタイガースとかコテコテとかが瀰漫しすぎている、
というのは言うまでもありませんが。


この『世界レベルの大阪ええもん』では、
「どんなふうに大阪らしいのか?」がキーです。
サービス精神、店と客とのやり取り、デラックス感、イチビリ的ユーモア、
これらは店やモノそれ自体にあるのではなく、
これらがやり取りされるまさにその瞬間に生まれるものです。
分かりにくい話で恐縮ですが、つまりこういうことなんじゃないでしょうか。


そう考えると、じっくりと付き合わなければならないのは、
京都よりも大阪の方が、一見分かりやすいフリをしているぶん、
見えづらいのかもしれません。