話題な男の来阪と、「村上春樹の朝食」な内田樹コラム。

こんにちは、青山ゆみこです。


先週末は、トータル10億の男である
週刊現代』の加藤編集長と木原副編集長がご来阪。
北新地で尼崎の味[がるぼ]にて
中島社長、江弘毅松本創らと鉄板のアテとチューハイで5時間。


10億の訴訟の内訳やら
書けない話以外は立ち入り禁止状態で
濁った泉が溢れ出しました。


加藤編集長も木原副編集長もばりばりの関西人とあり、
いや、ほんまやでしかし…と常に
自分への突っ込みを入れているようなノリが
最近の週刊現代には満ち溢れて…ないか(笑)。
よそには突っ込んで突っ込まれてますね。


本日発売号では松本創の取材記事が載っています。
下世話な体質の青山は、
ちょっと前は溝口敦さんの細木数子関連で、
最近は中田カフス吉本興業関連で「もち、買い!」と欠かさず。
今週号も楽しみです。




さて、ガラリと話は変わります。
少し前になりますが、
『トム・ソーヤー・ワールド』2月号にて
特集にからめて内田樹先生に
『村上(春樹)文学における「朝ご飯」の物語論的機能』
というコラムを特別寄稿いただきました。
http://blog.tatsuru.com/2006/12/06_1035.php

読み逃して…という声をときどきいただくので
折角ですし、こちらでアップしたいと思います。


Tom Sawyer (トム・ソーヤー) 2007年 05月号 [雑誌]
『トム・ソーヤー・ワールド』は
永江朗さんはじめ、江弘毅も連載を持っていますが
なかなか読ませるコラムが多くて、
一見プレステージ系の雑誌かと思いきや
遊び心に富んだ本読み好きする月刊誌です。
また、本屋さんで見つけたら
ぱらぱら捲ってみてくださいね。


お待たせしました。
では、以下に貼り付けます。
言うまでもありませんが、むっちゃくちゃ面白いです。
掲載/ワールドフォトプレス『トム・ソーヤー・ワールド』2007.02月号
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村上文学における「朝ご飯」の物語論的機能  文=内田樹神戸女学院教授・フランス現代思想


 「村上文学において朝ご飯が象徴するもの」というのはアメリカの大学院の日本文学研究科の修士論文に選ばれそうな、なかなかに深遠な主題である。お題を頂いたことを奇貨として、村上文学における「朝ご飯」の物語的機能について、これまで漠然と考えてきたことをまとめておきたいと思う。
 個別的考察に入る前に、まず基礎的事実の確認から。
 「ご飯を食べる」というのは人間にとって生きる上での、何より他者とともに生きる上での基本である。「他者とともに」という限定がある以上、それは単に生理的必要を満たすということには尽くされない。何を、どのような料理法で、どのように調理して、どのようにサーブして、どのような形式で、誰と食べるかということは、私が何ものであるかを決定する、すぐれて記号的なふるまいだからである。
「個食」「孤食」という食べ方が私たちの社会にはしだいに浸食してきているが、これには「共同体への帰属を拒否する」という社会的記号として解釈することができるし、現にそう解釈されている。というのは、「共食」(「ともぐい」と読まないでね)こそが人類にとって最も古い共同体儀礼だからである。共同体成員が集まって、同じ食物、同じ飲み物を分かち合う儀礼を持たない集団は存在しない。
それは一義的には生存のための貴重なリソースを「あなたに分かち与える」という「友愛のみぶり」である。
同時に、同じものを繰り返し食べることを通じて、共食者たちは生理学的組成において相似し、嗜好と食性を共有し、やがて同じような体臭を発するようになる。そのようにして人々はある種の「幻想的な共身体」のうちに分かちがたく統合される。
見落とされがちなことだが、食事はさらに一種の「身体技法」でもある。あらゆる食物はそれぞれに固有の「食べ方」を要求する。身をほぐし、皮を剥ぎ、切り刻み、掬い取り、舐め回し、噛み砕き、啜り上げ、嚥下する・・・という食物の摂取が要求される一連の動作は定められた「コレオグラフィ」を有している。共同体の会食は「群舞」に似ている。二人の会食者が差し向かいで食事をするのは、バレエにおける「パ・ド・ドゥ」に等しい。だから、恋愛の初期に男女がレストランで食事をするときに、二人がまったく同じ料理を選ぶことは心理的には忌避されるのである。それは、まだよく知り合っていない二人にとって、全く同じ料理を同時にサーブされて、同時に食べ始め、同時に食べ終わることが技術的にきわめて困難だからである。それよりは「違う踊り」を選ぶ方がよい。その場合に要求されることはとりあえず「同時に食べ終わる」ことだけである。サーブされる時間がずれ、使うナイフやフォークの種類が違い、食べ方が違うけれども、箸を置くタイミングがだいたい同じである場合に私たちは「パ・ド・ドゥ」のステップを間違えずに踊り終えたというささやかな達成感を得ることができる。これは身体的な「同期」をめざしているという点では、男女のエロス的交わりと変わらない。身体の基礎リズムの波形が合うことを、身体論の術語では「コヒーレンスが合う」とか「アライメントが整う」とか「合気する」という言い方をする。そのような同期経験はすべての生物に深い「種族的」な共生感を与えるのである。
これだけを予備的に確認しておけば村上文学の解明の手がかりとしては十分だろう。すなわち、食事の提供は「友愛のみぶり」であること、共食は生理的「共身体」の形成をめざしていること、食事を一緒に食べることは一種の「舞踊」であり、同期的共生感をめざしていること。
村上春樹はその小説の中で登場人物が食事をする場面が異常に多い作家である。そればかりか、エッセイの中でも書き手は食べることの重要性について書き続けている。
例えば、『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』(朝日新聞社、1997年)の中で、村上はあるレストランに対する「苦情の手紙」の現物を紹介さえしている(忙しいだろうに)。私が記憶する限り、村上春樹がそのエッセイの中でサービスについて文句を言ったことがあるのはアメリカの保険会社の電話係くらいで、基本的には商業的なサービスについてはかなり寛大な人物であるように思われる。このレストランはその村上春樹が「ほとんど激怒」している唯一の例外である。特に祝祭的な機会を選んで、「年に二回しかしないネクタイ」を我慢してまで出かけたフレンチ・レストランで、料理は文句のつけようがなく美味しかったけれど、「サーブをされる方に、六つか七つの具体的に不愉快な、筋の通らない、あるいはいささか配慮にかけた言動が見られました」ということについて村上春樹は(すごく)怒っているのである。たぶんこれは村上春樹が食事をすることの祝祭性にどれほどの重さをおいているかを傍証するであろう。
もう一つ、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』の中で、魅力的な登場人物である図書館の女の子がセックスとご飯の類似性について語っている場面を引いておこう。主人公の「私」とのセックスが彼の都合で不首尾に終わったあとの彼女の言葉。
「でもべつに急いでなおさなくてもいいのよ。私の生活は性欲よりはむしろ食欲を中心にまわっているようなものだから。それはそれでかまわないの。セックスというのは、私にとってはよくできたデザート程度のものなの。」
それは逆に言えば「よくできたデザート」を供されることは彼女にとってセックスするのと同じくらいの快楽と親密さを約束するということである。
というところで、これでようやく朝ご飯の話を始めることができる。
村上春樹の全作品における「朝ご飯場面」を網羅的に吟味した(のである)限り、わかったことがいくつかある。まず異論の余地のない出発点から。
当然のことのように思われるかも知れないが、村上作品の登場人物たちは朝ご飯を一人または二人以上で食べる。そして、一人で食べるときと二人以上で食べるときでは、食事の意味がまったく違っているということである。
一人食べるときのメニューはだいたいトーストとコーヒー(たまにオムレツとリンゴジュース)。前夜に飲みすぎたり煙草を吸いすぎた場合に、「僕」の朝ご飯はあまり味がしない。例えば、『羊をめぐる冒険』で、まだ冒険が始まる前の、あまりぱっとしない朝ご飯はこんなふうに描写される。
「僕は冷蔵庫からオレンジ・ジュースを出して飲み、三日前のパンをトースターに入れた。パンは壁土のような味がした。」
ダンス・ダンス・ダンス』で「僕」がいるかホテルで空しく日を過ごすときに食べる朝ご飯は「食べると綿ぼこりみたいな味」がする。
つまり、「僕」にとって朝ご飯(しばしばトースト)の味は、「僕」が投じられている状況そのものの不毛性質の比喩になっている。
だが、朝食の場に相手がいても、その人物が「共食」を拒絶する場合には、朝ご飯の味は損なわれる。『羊をめぐる冒険』の冒頭で、泥酔して帰宅した「僕」をキッチンで待つ別れた妻との気まずい朝食の記述を見てみよう。
「僕」はコーヒーを淹れるが、彼女は「寒さをしのぐような格好で両手でコーヒー・カップを包みこみ、縁に唇を軽くつけたままじっと僕を見ていた」だけで、それを飲もうとはしない。彼女は「僕」のためにサラダを作っていてくれた。
「僕は冷蔵庫からサラダの入った青い沖縄ガラスの深皿を取り出し、瓶の底に五ミリほど残っていたドレッシングを空になるまでふりかけた。トマトといんげんは影のようにひんやりしていた。そして味がない。クラッカーにもコーヒーにも味はなかった。」
共食者をもたない朝ご飯はその場に他者がいあわせても、「味がない」のである。
ところが、誰か分かち合うことができるときには、モノクロの映画がカラー画面に変わったように、朝ご飯は暖かく豊かな食感を回復する。
ダンス・ダンス・ダンス』でガールフレンドに朝ご飯をふるまうときはこんなふうだ。
「『朝ご飯、何がある?』と彼女は僕に尋ねる。
 『特に変わったものはないね。いつもとだいたい同じだよ。ハムと卵とトーストと昨日の昼に作ったポテト・サラダ、そしてコーヒー。君のためにミルクを温めてカフェオレを作る』と僕は言う。
『素敵』と彼女は言って微笑む。」
五反田くんの家にコールガールたちを呼んだ翌朝、四人で食べる朝ご飯の場面にもある種の幸福感が漂っている。
「僕が台所でコーヒーを作っていると、あとの三人が目を覚まして起きてきた。朝の六時半だった。(・・・)僕らは四人で食卓についてコーヒーを飲んだ。パンも焼いて食べた。バターやらマーマレードやらを回した。FMの『バロック音楽をあなたに』がかかっていた。ヘンリー・パーセル。キャンプの朝みたいだった。
『キャンプの朝みたいだ』と僕は言った。
『かっこう』とメイが言った。」
『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』で「私」が図書館の彼女と食べる生涯最後の朝食はたぶん村上文学の中で一番豪勢な朝ご飯だろう。
「私は鍋に湯をわかして冷蔵庫の中にあったトマトを湯むきし、にんにくとありあわせの野菜を刻んでトマト・ソースを作り、トマト・ピューレを加え、そこにストラスブルグ・ソーセージを入れてぐつぐつと煮こんだ。そしてそのあいだにキャベツとピーマンを細かく刻んでサラダを作り、コーヒーメイカーでコーヒーを入れ、フランス・パンに軽く水をふってクッキング・ホイルにくるんでオーヴン・トースターで焼いた。食事ができあがると、私は彼女を起し、居間のテーブルの上のグラスと空瓶をさげた。
『良い匂いね』と彼女は言った。」 
他者と分かち合う朝ご飯は、何よりも「同期」の感覚をもたらす。
ダンス・ダンス・ダンス』の朝食の頂点は「僕」の「キャンプの朝みたいだ」にメイが「かっこう」と応じるときに訪れる。その同期の経験は「僕」に深い共生感をもたらす。だから、メイが死んだあとも「喪失感」を覚えるたびに、「かっこう」の声は繰り返し「僕」の耳に響くのである。
世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の朝食も「私」が図書館の女の子と親密なセックスをした翌朝のものだ。だから、実は「良い匂いね」のあとには重要な一節が続く。
「『もう服を着てもいいかな?』と私は訊いた。女の子より先に服を着ないというのが私のジンクスなのだ。文明社会では礼儀というのかもしれない。」
服を「同時に」着ることを「礼儀」にかかわる規範であると感じるのは人間として健全なことである。親密な性行為のあとには、一方が他方「より先に」服を着るということは心理的には忌避される。「同時に服を着る」のは「同時に箸を置く」のと同じく、同期を確認する微かな、しかし確実なシグナルである。私たちは性行為のあとに、相手をベッドの中に取り残しててきぱきと食事の支度をすることは「友愛のみぶり」として解釈するけれど、てきぱきと身支度をすることは「礼儀にかなっていない」というふうに解釈する。それは人類学的には遠い起源を持つ判断なのである。
『世界の終わり・・・』の「私」はたぶんこのとき裸で朝ご飯の支度をしていたはずである。「裸で家事をすること」について、村上春樹は深い関心を寄せている。『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』は「全裸家事主婦」のトピックに二回分10頁を割いた。アメリカの新聞の人生相談で読んだ「全裸で家事をする主婦」の記事にインスパイアされて村上春樹はこう書いている。
「その後も『全裸家事主婦』のことは、不思議に僕の頭を離れなかった。電車の吊り革に一人でつかまってぼおっとしていると、裸で白菜を切ったりアイロンをかけたりする主婦の姿がふと頭に浮かんできたものだった。そもそも人はどのような過程を経て、全裸で家事をしようという発想にいたるのか?そんなことをあれこれと考えているうちに僕も、『いや、服を脱ぎ捨てて裸で家事をするのは、けっこう気分のいいものかも知れないぞ』と考えるようになった。」
『世界の終わり・・・』はこのエッセイよりも時間的にはかなり前に執筆されている。だから、「全裸家事主婦」に驚いている村上自身は自作の主人公に「全裸家事」をさせていることをたぶんこのときには忘れていたのだと思う(自作は読み返すことがないので、何を書いたのか覚えていないと村上春樹は繰り返し断言しているし)。だから、「全裸家事」に対する村上のこの「好意的な関心」は自作の主人公がガールフレンドに示した「礼儀正しさ」への村上の好意的評価から導かれたと考える方が自然だろう。
以上、「村上文学の中の朝ご飯」の物語論的な機能について、思うところを述べてみた。村上春樹が世界的なポピュラリティを享受していることについて、多くの批評家がその「謎」を解明しようとしているけれど、私は村上文学は「共同体はどのようにして立ち上げられ、どのようにして崩壊するか」というすべての人間にとって根源的な主題を、ほとんどそれだけを執拗に(それと気づかずに、「お気楽エッセイ」にまで)書き続けていることによって世界性を獲得したと考えている。それはこの「朝ご飯」についての短い考察からも知れるはずである。
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